あなたの会社は、いつからホームページを公開していますか?
今回は、昔のホームページ制作の話を筆者の歴史を交えて紹介します。
こんにちは。三重県津市でホームページ制作(独自ドメイン+WordPressで、コンテンツマーケティング)とSEOを推進している、株式会社アイキャッチです。
1990年代のパソコン通信時代
私は、1990年代初め頃からパソコン通信で遊んでいました。
当時、まだ20代前半でしたから、パソコン通信で「遊ぶ」のが好きでした。
使っていたコンピュータは、Apple社のMacintosh Color Classicという、モニターディスプレイ一体型のコンパクトなマックでした。
OSは、漢字TalkというOSで、フロッピーディスクでOSをインストールしていました。
最初は、スタンドアローンでファイルメーカー2(プロではない)というデータベースソフトウェアや、ハイパーカードやマクロメディア・ディレクターなどのオーサリング・ソフトウェアで遊んでいました。CD-ROMが作れたのです。
当時私は、ディスコ(MAHARAJA)のDJを辞めたばかりの頃でしたので、持っている大量のレコード盤のリストを、ファイルメーカー2で作っていました。
Photoshopも購入しました。日本語版が高価だったため、輸入盤のAdobe Photoshopのバージョン3英語版を購入し、初めてのコンピュータグラフィックというものに興奮した覚えがあります。
そんな頃、パソコン通信というものがあるというのを知りました。
電話回線(アナログ)とマックをモデムという装置で接続し、ダイヤルアップでホストコンピュータに接続するのです。
そのころは、まだインターネットの時代ではありませんでした。
当時は、私は静岡県浜松市に住んでいました。
J-TERMというターミナルソフトウェア(通信ソフト)とモデム(2400bps)を購入し、夜な夜な、J-TERMの開発元(株式会社まつもと)の開設するBBS(掲示板システム)に接続する毎日でした。
その後、ニフティ―サーブという巨大パソコン通信にも接続し、夜な夜なチャットをする日々。
給料が出たら新しいパソコン(マック)を買っては、接続し、オフ会はMacintosh DUO(デュオ)を持って、秋葉原まで新幹線のグリーン車で出かける・・・という、何ともリッチな独身時代を過ごしていました。
そんな頃に、とてつもない衝撃を受けた事件がありました。
朝方までチャットをしていて、ワンルームの1人暮らしの部屋で寝ようとしていたその頃。
鉄製の玄関ドアに磁石でつけていたベル(ドアが開くとちりんちりんと鳴る犬の形のベルです)が、ちりんちりんとわずかに音をたてたのです。
しかし、何も知らずに午前中は寝ていて、昼頃起きてテレビをつけたら・・・
1995年1月17日のことでした。そうです。あのベルの音は、阪神淡路大震災の地震が鳴らしたベルだったのです。
大震災当時のニフティ―サーブ
今でもはっきりと覚えています。
すぐにパソコンの電源を入れ、ニフティ―サーブにつないだ時のことを。
いろんな人がいろんな掲示板、フォーラムで震災の被害について書き込みをしていました。
中には次々と増えていく死者を何名までいくか予想する「死者ビンゴ」なるものをしている者も。
その後、マッキントッシュの雑誌(当時はたくさん雑誌が発売されていました。)で、インターネットというもので阪神淡路大震災の速報を流していた、という情報を読みました。
それが、私がはじめてインターネットというものを知ったきっかけになります。
インターネット?ホームページ?
当時の私は、ネットワークといえばパソコン通信の形態しか思い浮かびませんでした。
しかし、それらのパソコン通信たちが、さらに相互につながることができるらしい。共通のTCP/IPというプロトコルを使って。
そうしたら、料金とかどうなるんだろう。どこにつなげばいいんだろう。そんなことを考えていたような気がします。
なにせ、当時の私はJ-TERMのBBS「まつのゆ」まで直電でつないでチャットをしていたくらいです。
静岡県浜松市から、神奈川県大和市まで、毎晩長距離電話でした。まだ、テレホーダイ(通話料定額制サービス)がはじまる前の話です。
一ヶ月に10万円近い電話代金(単なるチャットだけです)になったこともありました。
それが、世界とつながるインターネットとやら。電話代はどうなるんだ?と思った次第です。
インターネットマガジン創刊
前年の1994年の秋に、インターネットマガジンという雑誌が創刊されています。
私は立ち読みをしたことはありましたが、まさかそのインターネットがそんなにすごいものだとは思っていませんでした。
早速、RIMNETというところと契約し、浜松から一番近い名古屋のアクセスポイントへダイアルアップをすることにしました。
そのころのモデムのスピードは、28800bpsだったと思います。
それからはニフティ―サーブよりもRIMNETにつなぐ毎日がはじまります。
NCSA MOSAIC、Netscape Navigator、Internet Explorer
モザイクというソフトをダウンロードし、ユードラというメールソフト、フェッチというFTPソフトなど、当時のマックユーザーならなつかしさを感じるのではないでしょうか。
モザイクはやがて、Netscape(ネットスケープ)に代わりました。マイクロソフトもInternet Explorerのバージョン1をリリースしました。
当時のパソコン雑誌には、ブラウザーがCD-ROMに入っていました。
ただ、Internet Explorerの1は、めちゃくちゃ使い勝手と評判が悪かったのは、今でも覚えています。
今も変わらない、マイクロソフト流です。
そして、半年もしないうちに、私は決意します。
プロバイダーをやろう!と。
ついにプロバイダーを浜松市で開業
当時、屋台村が流行っていて屋台村の店長をしていた私は、インターネットマガジンを購入し、「フランチャイズ募集」の広告があるプロバイダーをいくつか見つけました。28歳の頃です。
休みの日にいくつかのプロバイダーにアポイントをとり、東京まで出かけ、経営者と話をし、プロバイダーというものをはじめて見学しました。そのころはまだまだ単純な感じでした。
さっそく、開業に当たってテナント探し、NTT法人営業部にメタル回線(フレームリレー、東京浜松間)の見積り、着信10回線の準備など、忙しく動き回ります。夜は屋台村の店長、昼間は早く起きて準備です。国民金融公庫にも融資の打診をしにいきました。
そして、1995年の11月に浜松市にプロバイダーのアクセスポイントをオープンできました。自分の事務所兼あそび場兼タダのネット環境を揃えたのです。
メタルは128kbpsのフレームリレーで東京のフランチャイジーにダイレクトで接続していたので、地方の当時にしてはかなり良い環境で接続し放題の環境ができました。
当初、28800bpsの着信用モデムを10台揃えましたが、すぐに33600bps、56000bpsと速度が上がっていき、予想外の出費になったのは苦い思い出です。
そのうち、ISDNというもので64kbpsになり、PHSで接続するPIAFSにも対応したりと、何かと出費がかかりました。
そして、プロバイダーのフランチャイズのアクセスポイントとはあまりやることがなく、ホームページでも作るか!という事になります。
1996年ごろ、ちょうど、あの有名なホリエモンさんがオンザエッヂを立ち上げたころではないでしょうか。
私もお客さんの会社のホームページを作り始めました。
PDFが出る前後だったので、製品カタログはGIFやJPGにしていました。ソフトは・・・イラストレーターは使えなかったので、名前が思い出せませんが、似たようなソフトで作りました。アルダスの・・・Super Paintだったかな?
あとは、Great Works、クラリスワークスなんかも使いましたね。
グラフィックはそのようなソフトと、カシオのQV-10というデジタルカメラで作成。
あとは、テキストはJ-editというテキストエディターでHTMLを書きました。
それをFetchでサーバーにアップロード。面白くて、忙しくて、三日三晩寝ずに作業した時もありました。まだ若かったですし、ね。
そのころは今とちがって、ドメインを簡単にとれるような時代ではありませんでした。
90年代は企業以外は、ほとんどプロバイダーのホームページスペースだったのではないでしょうか。
しかし、友人たちと一緒に、できたてのGRドメインやNEドメインとかは取得した覚えがあります。
FreeBSDのサーバーを構築したり、今から思えばのんびりした牧歌的な時代だったようにも思います。
いまだに私は、ホームページやWordPressをチームで作るという感覚はありません。一人でこつこつと作る、というのが板についてしまって、それでは大きな仕事を請けられないし、儲かる仕事はやってこないのかもしれませんが、ホームページ制作というと、一人でこつこつ・・・というのがそのころから今まで続く、私のスタンスです。
昔のホームページ制作、まとめ
昔のホームページ制作事情の事を書くつもりでしたが、いろんなことを思い出してしまい、インターネットの日本における黎明期の雰囲気なんかも伝えたくて、書いているうちに長くなってしまいました。
ホームページ制作は、まだ当時は分業の時代ではなく、そのあとに分業の時代がやってきたように思います。
マクロメディアディレクターや、マクロメディアフラッシュなんかは、私も一人でこつこつと作っていました。同時に、Adobeのドリームなんちゃらとか(私はつかったことない)で作った、いわゆる「キレイなホームページ」の時代がやってきます。
当時は、クラリス社(現ファイルメーカー社)からもホームページ制作ソフトが出ていて、「クラリスホームページ」というソフトは、ファイルメーカー4と連携したカスタムWEBが作れるので、すぐに買ってやってみて、感動した経験があります。
いまだに当時のお客さんのために作ったシステムが、今でも発展しながら動いています。(20年以上稼働しています)
フロントエンドはWordPress+賢威に代わりましたが、バックエンドでは、ファイルメーカーが動いています。
というわけで、続きはまた書きたくなったら書いてみようかと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。